沖田総司
Okita Sōji
新選組一番隊組長——天賦の剣才と三段突きの秘剣を持ちながら、桜のように儚く散った天才剣士
解説
天才剣客の誕生
天保十三年(一八四二年)頃、武蔵国に生まれたとされる沖田総司は、新選組一番隊組長として隊内最強の剣士と謳われた天才剣客である。その生年には諸説あり、天保十五年(一八四四年)説もあるが、いずれにせよ幕末の若き天才剣士として、日本人の心に深く刻まれた存在である。
試衛館での修行
総司は幼少期に試衛館に入門し、天然理心流の修業を始めた。近藤勇の養父・近藤周助の指導を受け、その天賦の才は早くから頭角を現した。天然理心流の免許皆伝を最年少で取得したとされ、その技量は師である近藤勇や土方歳三をも凌いだと伝えられる。試衛館時代の総司は、稽古で大人の剣士を次々と打ち負かす少年として知られ、その非凡な才能は道場の誰もが認めるところであった。
新選組の天才
総司の必殺技「三段突き」は、新選組の剣術の中でも最も恐れられた技である。一瞬のうちに三度の突きを繰り出すこの技は、まるで一度の突きにしか見えないほどの神速であったとされる。突きは剣術の中でも最も高度な技法のひとつであり、それを三度連続で放つ技量は常人の域を遥かに超えている。実戦において突き技は相手に反応の余地を与えない致命的な攻撃であり、総司の三段突きを受けて生き延びた者はいなかったとも伝えられる。
近藤勇との関係
池田屋事件(元治元年・一八六四年)では、総司は先鋒として池田屋に斬り込んだ。狭い屋内での乱戦において、総司は天賦の剣才を遺憾なく発揮し、敵の志士を次々と斬り伏せた。しかしこの激闘の最中、総司は喀血したとも伝えられる。労咳(結核)の最初の兆候であった可能性がある。池田屋での総司の活躍は、新選組の武威を天下に示す決定的なものであったが、同時にその命を蝕む病の影がこの時すでに忍び寄っていた。
京都での活躍
総司の愛刀として知られるのは「加州清光」と「大和守安定」の二振りである。加州清光は加賀国の刀工・清光の作で、切れ味の鋭さと取り回しの良さで新選組の実戦に適した刀であった。清光の作刀は地鉄がやや黒みがかった独特の風合いを持ち、華やかさよりも実用性に優れた刀として幕末の剣客たちに愛された。大和守安定は江戸時代前期の刀工・安定の作で、新選組の剣士たちの間で特に人気の高かった刀工である。安定の刀は切れ味の良さで定評があり、人を斬るために最も適した刀として幕末の実戦家たちに選ばれた。
病と戦場
また「菊一文字則宗」を所持したという伝説もある。菊一文字則宗は鎌倉時代の備前一文字派の祖・則宗の作とされる名刀で、天皇から菊紋を賜ったことからこの名がある。ただし、この伝説の信憑性については議論があり、菊一文字ほどの古名刀を新選組の一隊長が所持していたとは考えにくいとする見方もある。しかし、この伝説が総司に結びつけられたこと自体が、総司の剣技がいかに超越的なものであったかを物語っている。
伝説の剣客
慶応三年(一八六七年)頃から総司の結核は急速に悪化し、戦線を離れざるを得なくなった。最強の剣士でありながら戦場に立てないという苦悩は、総司にとって刀を折られるに等しい苦しみであったろう。鳥羽・伏見の戦いにも参加できず、総司は江戸で療養生活を送った。
慶応四年(一八六八年)五月三十日、総司は江戸の千駄ヶ谷で没した。享年は二十代半ばとされる。戊辰戦争を待たずに夭折した天才剣士——その薄命の生涯は、満開の桜が一瞬にして散るがごとき儚い美しさを持ち、日本人の心を打つ。桜の花びらが舞い散る中で黒猫を追いかけていたが捕まえられなかった——という最期の逸話は創作とされるが、総司の儚い生涯を象徴する美しい挿話として広く知られている。天才的な剣の才能を持ちながら、その才能を十全に発揮することなく散っていった総司の姿は、日本人が愛する「もののあわれ」の美学そのものである。
所持した刀剣
- 加州清光(加賀国の刀工・清光の作。切れ味の鋭さと取り回しの良さで新選組の実戦に適した。地鉄がやや黒みがかった独特の風合いを持つ実用刀)
- 大和守安定(江戸前期の刀工・安定の作。切れ味の良さで新選組の剣士たちに特に人気が高く、人を斬るために最も適した刀として幕末の実戦家たちに選ばれた)
- 菊一文字則宗(伝・鎌倉時代の備前一文字派の祖・則宗の作。天皇から菊紋を賜った名刀。総司所持の信憑性には議論があるが、その伝説自体が総司の剣技の超越性を物語る)