近藤勇
Kondō Isami
新選組局長——農家出身ながら天然理心流四代目を継ぎ、虎徹を手に幕末の京都に君臨した剣豪
解説
局長の誕生
天保五年(一八三四年)、武蔵国多摩郡上石原村に農家の三男として生まれた近藤勇(宮川勝五郎)は、天然理心流四代目宗家を継ぎ、新選組局長として幕末の京都に君臨した剣豪である。農民の子から武士の頂点へと上り詰めた近藤の人生は、幕末という激動の時代を象徴するドラマチックなものであった。
天然理心流の継承
近藤は十五歳の時に天然理心流の三代目宗家・近藤周助の試衛館に入門した。天然理心流は武蔵国多摩で生まれた実戦的な剣術流派で、派手な技よりも実戦での確実性を重視する堅実な剣法が特徴である。近藤はこの流派の精神を体現するかのように、類まれな胆力と堅実な剣技で頭角を現し、周助の養子となって四代目宗家を継承した。
試衛館と新選組
文久三年(一八六三年)、将軍上洛の警護のために募集された浪士組に参加した近藤は、京都に残留して壬生浪士組(後の新選組)を結成した。近藤を局長に、土方歳三を副長に据えた新選組は、池田屋事件をはじめとする尊王攘夷派志士の取り締まりで名を馳せ、幕末最強の武装集団としてその名を天下に轟かせた。
京都での統率
近藤の愛刀「長曽祢虎徹」をめぐる物語は、幕末の刀剣文化を語る上で欠かせないエピソードである。長曽祢興里(虎徹)は江戸時代を代表する名工のひとりであり、その刀は最上大業物(最高の切れ味を持つ刀)に位置づけられている。虎徹の作刀は、沸出来の力強い刃文と、数珠刃と呼ばれる独特の模様が特徴的で、切れ味と美しさを兼ね備えた至高の存在である。
最強の局長
しかし近藤の虎徹については、実は源清麿の作を虎徹として購入した——すなわち贋作であったという説が古くから根強い。源清麿は幕末の名工であり、その作刀は虎徹に匹敵すると評される高い技量を持つ。清麿の刀を虎徹と偽って販売する刀剣商がいたことは当時から知られており、近藤もその犠牲者であった可能性がある。いずれにせよ、近藤が「虎徹」として愛したこの刀は、池田屋事件をはじめとする実戦で素晴らしい切れ味を発揮しており、真贋に関わらず名刀であったことは間違いない。
幕末の終焉
近藤は手紙の中で「今宵の虎徹は血に飢えている」と記しており、愛刀への執着は並々ならぬものがあった。この一文には、戦闘前の高揚感と、愛刀への絶対的な信頼が凝縮されている。近藤にとって虎徹は単なる武器ではなく、武士としての自分自身の証であった。
局長の最期
もう一振りの「大和守安定」は、新選組の剣士たちの間で人気の高かった刀工の作である。近藤は虎徹のほかにこの安定も所持しており、状況に応じて使い分けたとされる。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した後、近藤は甲州勝沼の戦いでも敗れ、下総国流山で新政府軍に投降した。大久保大和と偽名を使ったが身元が露見し、慶応四年(一八六八年)四月二十五日、板橋宿近くの刑場で斬首された。享年三十五。
農家の子が武士の魂を求め、天下にその名を馳せ、そして散っていった——近藤勇の生涯は、虎徹の真贋論争と同様に、「本物とは何か」という問いを我々に投げかけている。身分の壁を超え、剣一本で武士の頂点に立った近藤にとって、虎徹が本物か贋作かということは、おそらくどうでもよいことであった。重要なのは、その刀で何を成したかである。
所持した刀剣
- 長曽祢虎徹(真贋論争あり。長曽祢興里は江戸を代表する名工で最上大業物に位置づけられる。沸出来の力強い刃文と数珠刃が特徴。源清麿の贋作説が根強いが、いずれにせよ実戦で素晴らしい切れ味を発揮した名刀)
- 大和守安定(新選組の剣士たちに人気の高かった刀工の作。切れ味に定評があり、近藤は虎徹と使い分けたとされる)