坂本龍馬
Sakamoto Ryōma
幕末の風雲児——刀と拳銃を併せ持ち、薩長同盟と大政奉還で日本の近代化を導いた志士
解説
志士の誕生
天保六年(一八三六年)、土佐国高知城下に郷士の家に生まれた坂本龍馬は、薩長同盟の仲介と大政奉還の建白に決定的な役割を果たし、日本の近代化への道筋を切り拓いた幕末最大の志士である。龍馬の功績は政治的なものにとどまらず、海援隊の設立による海運事業の推進、船中八策による新国家構想の提示など、旧来の武士の枠を遥かに超えた先見性に溢れている。
剣術修行の日々
龍馬は十四歳のとき、高知城下の日根野弁治の道場で小栗流和術を学び始めた。その後、嘉永六年(一八五三年)に剣術修業のため江戸に出府し、北辰一刀流の千葉定吉道場に入門した。千葉道場での修業は龍馬の剣術の基盤を築き、北辰一刀流の免許皆伝を受けたとされる(ただし目録までとする説もある)。千葉定吉の娘・千葉佐那は龍馬に想いを寄せたとされ、二人の間には淡い恋物語が伝わっている。
海援隊と海運事業
龍馬の佩刀として最も有名なのは「陸奥守吉行」である。土佐国の刀工・吉行の作であるこの刀は、龍馬が生涯を通じて愛用した一振りで、坂本家に代々伝わる家宝であった。吉行は土佐藩お抱えの刀工で、地鉄の精美さと実戦向きの切れ味で知られる。龍馬がこの刀を佩いて日本中を駆け回った姿は、幕末の志士の象徴そのものである。
政治的活動
慶応三年(一八六七年)十一月十五日、京都河原町の近江屋で龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺された。この時、龍馬は陸奥守吉行を鞘のまま抜き上げて刺客の太刀を受けたが、額を深く斬られ致命傷を負った。鞘ごと受け止めたために陸奥守吉行には深い刀傷が残り、この傷跡は龍馬の最期を無言で語る証人として現存する。龍馬の暗殺の実行犯については京都見廻組の佐々木只三郎とする説が有力だが、その黒幕をめぐっては現在も議論が続いている。
刀剣への想い
龍馬が時代の先を見据えていたことを示す象徴的なエピソードがある。龍馬はスミス&ウェッソンのリボルバー拳銃を携帯した最初期の日本人のひとりであり、寺田屋事件の際にはこの拳銃で伏見奉行所の捕り方を撃退している。刀と拳銃——武士の伝統的な武器と近代的な火器を併せ持つ龍馬の姿は、伝統と革新が激しく交錯する幕末という時代そのものを体現していた。龍馬自身、ある時は「これからは刀ではなく万国公法(国際法)の時代だ」と語ったとされ、刀に対する認識もまた時代とともに変化していたことがうかがえる。
龍馬の器
龍馬にとって刀は武士の魂であると同時に、古い時代から新しい時代への橋渡しとなる象徴的な存在であった。陸奥守吉行に刻まれた刀傷は、龍馬の命とともに幕末という激動の時代が終わりを告げたことを、静かに物語っている。龍馬が夢見た新しい日本は、その死からわずか数カ月後の明治維新によって実現することとなる。享年三十一。その短くも激烈な生涯は、日本人の心に永遠の輝きを放ち続けている。
所持した刀剣
- 陸奥守吉行(土佐藩お抱えの刀工・吉行の作。坂本家代々の家宝。龍馬が生涯愛用し、近江屋での暗殺時にも身に着けていた。鞘ごと刺客の太刀を受け止めた際の刀傷が現存する)
- 北辰一刀流の修業刀(千葉定吉道場での修業に用いた稽古刀。龍馬の剣術の基盤を築いた)