本多忠勝
Honda Tadakatsu
戦国最強の武将——五十七戦無傷の不敗伝説を刻んだ徳川四天王の筆頭
解説
不敗の伝説
天文十七年(一五四八年)、三河国に生まれた本多忠勝は、徳川家康に仕えた武将の中で最も武勇に秀でた人物として、戦国史にその名を永遠に刻んでいる。生涯五十七度の合戦に参じながらただの一度も傷を負わなかったという伝説は、忠勝の超人的な武勇を端的に物語るものである。織田信長は忠勝を評して「花も実も兼ね備えた武将」と称え、武田信玄の軍師・山県昌景は「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と讃嘆した。
殿軍の武勇
忠勝の武名を天下に轟かせた最大の功績は、三方ヶ原の戦い(元亀三年・一五七二年)における殿軍である。武田信玄の精鋭騎馬軍団に大敗を喫した徳川軍にあって、忠勝はわずかな手勢で追撃する武田軍の前に立ちはだかり、家康の撤退を見事に成功させた。この時、忠勝は愛槍「蜻蛉切り」を縦横に振るい、押し寄せる敵兵を次々と突き伏せたと伝えられる。小牧・長久手の戦いでは、秀吉の大軍を前にわずか五百の兵で挑発的な陽動を敢行し、秀吉に「東国無双の大将」と言わしめた。関ヶ原の合戦においても先陣を務め、六十歳を超えた老齢ながら衰えを見せぬ武勇で味方を鼓舞した。
愛槍蜻蛉切り
忠勝の代名詞である愛槍「蜻蛉切り」は、日本三名槍のひとつに数えられる天下の名品である。三河国の刀工・藤原正真の作で、穂先の長さ約四十三・八センチメートル、柄を含めた全長は六メートルにも及んだとされる。その号の由来は、穂先に止まった蜻蛉が触れただけで真っ二つに裂けたという逸話に基づく。正真は村正の門人とも伝えられ、その作刀は三河武士が求める実戦本位の鋭利な切れ味と堅牢な造込みを兼ね備えていた。蜻蛉切りの穂先には見事な笹穂造りが施され、樋を掻いた精悍な姿は、忠勝の剛毅な人柄を映すかのようである。
剣術の修行
忠勝は槍の達人として名高いが、太刀の扱いにも熟達していた。合戦においては状況に応じて槍から太刀へと巧みに持ち替え、接近戦での斬り合いにも卓越した技量を示した。「中務正宗」は忠勝が所持したとされる正宗の傑作で、相州伝の力強い沸出来の刃文と、精緻な地鉄の美しさが見事に調和した名刀である。忠勝はまた藤原正真作の刀も複数所持しており、三河武士らしい実用本位の刀剣を好んだ。
甲冑と信仰
忠勝の甲冑は鹿角の脇立てと黒糸威しの具足が特徴的で、数珠を身に着けて戦場に赴いたことでも知られる。これは自らが討ち取った敵兵の菩提を弔うためであったとされ、忠勝が単なる猛将ではなく、武士としての矜持と慈悲を兼ね備えた人物であったことを示している。
晩年と最期
晩年、忠勝は桑名藩十万石の藩主として領国経営に手腕を発揮した。慶長十五年(一六一〇年)、小刀で手を滑らせて負傷した際、「本多忠勝もそろそろ終わりか」と呟いたという逸話がある。生涯戦場で一度も傷を負わなかった男が、平穏な日常の中で初めて血を流したのである。その数日後に忠勝は没した。
DATEKATANAとの関わり
DATEKATANAでは、蜻蛉切りを鍛えた藤原正真の貴重な作品を取り扱っております。戦国最強の武将が命を託した刀工の真作に触れる、またとない機会をぜひご堪能ください。
所持した刀剣
- 蜻蛉切り(槍・藤原正真作。日本三名槍のひとつ。穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに裂けたことから号が付いた。笹穂造りの見事な穂先を持つ)
- 中務正宗(相州正宗の傑作。沸出来の力強い刃文と精美な地鉄が調和した名刀)
- 藤原正真作の太刀(三河武士が愛した実戦本位の堅牢な造り)