斎藤一
Saitō Hajime
新選組三番隊組長——左片手一本突きの凄腕にして、明治の世を生き抜いた最後の新選組幹部
解説
謎の三番隊組長
天保十五年(一八四四年)、江戸に生まれた斎藤一(はじめ)は、新選組三番隊組長として沖田総司と並び称された凄腕の剣客であり、新選組幹部の中で最も長命を保ち、明治・大正の世を生き抜いた唯一の人物である。その半生は謎と沈黙に包まれ、新選組の剣士の中で最も多くの秘密を抱えたまま世を去った男である。
剣術の修行
斎藤の剣術の流派については、無外流とする説と一刀流とする説がある。無外流は江戸時代初期に辻月丹が創始した剣術流派で、禅の精神を取り入れた精神性の高い剣法が特徴である。一方、一刀流は伊藤一刀斎が開いた剣術の大流派で、一撃必殺の太刀筋を旨とする。いずれの流派であったにせよ、斎藤の剣技が凄まじいものであったことは、新選組内での評価が証明している。
新選組での活躍
斎藤の最大の特徴は左利きであったことである。剣術において左利きの剣士は極めて珍しく、右利きの剣士にとっては通常の太刀筋とは逆方向からの攻撃に対応しなければならないため、対戦相手にとっては非常に厄介な存在であった。斎藤の「左片手一本突き」は、左手で繰り出す鋭い突き技であり、通常の右からの攻撃を想定している剣士の防御を無効化する恐るべき技であった。この技を食らった者は、太刀が飛んでくる方向を見誤り、避けることも受けることもできないまま致命傷を負ったとされる。
藍染の局
新選組における斎藤の役割は、剣の達人としてだけではなかった。斎藤は新選組の間者(スパイ)としても活動し、尊王攘夷派の動向を探る諜報任務を遂行した。伊東甲子太郎が率いる御陵衛士(高台寺党)に潜入した際には、伊東一派の動向を逐一新選組に報告し、油小路事件における伊東暗殺の情報的基盤を提供した。この冷徹な諜報活動は、斎藤が単なる武闘派ではなく、状況を冷静に分析し判断する知性を備えていたことを示している。
幕末から明治へ
戊辰戦争が始まると、斎藤は鳥羽・伏見の戦いから会津戦争まで、最前線で戦い続けた。特に会津藩との関わりは深く、新選組が事実上瓦解した後も斎藤は会津藩に合流し、会津藩とともに最後まで戦い抜いた。斎藤にとって会津藩への忠義は、新選組の精神を継承するものであったのかもしれない。
長命を保った理由
明治維新後、斎藤は「藤田五郎」と名を変え、会津松平家の家臣の娘を妻に迎えて静かな余生を送った。警視庁に勤務し、西南戦争にも従軍したとされる。新選組時代の過去を一切語らず、周囲の人々は藤田五郎がかつての新選組三番隊組長であることを知らなかったという。
沈黙の人生
斎藤が使用した刀は、実戦での機能性を重視した無銘の刀が多かったとされる。「鬼神丸国重」は斎藤の愛刀と伝えられるが、確実な史料は乏しい。斎藤にとって刀は名声や格式の象徴ではなく、確実に敵を倒すための純粋な武器であった。華やかな銘や美しい刃文よりも、一太刀の切れ味と耐久性を追求した斎藤の刀剣観は、その寡黙で実直な人柄と見事に合致している。
大正四年(一九一五年)九月二十八日、斎藤一(藤田五郎)は東京で没した。享年七十二。新選組の主要幹部の中で最も長く生き、激動の幕末から明治・大正までを見届けた斎藤の人生は、武士の時代が終わり、新しい日本が形作られていく過程そのものであった。最後まで新選組の過去を語ることなく、沈黙のうちに逝った斎藤の姿は、時代が変わっても武士の魂を貫いた男の姿そのものである。
所持した刀剣
- 鬼神丸国重(伝・斎藤の愛刀とされるが確実な史料は乏しい。国重は備中国の刀工で、実戦向きの堅牢な刀を鍛えた)
- 無銘の実戦刀(斎藤は華やかな銘や刃文より、一太刀の切れ味と耐久性を重視した。確実に敵を倒すための純粋な武器としての刀を好んだ)
- 左利き用に調整された太刀(左片手一本突きに最適化された握りと重心を持つ実用刀)