織田信長
Oda Nobunaga
第六天魔王——天下布武の旗印のもと、旧秩序を破壊し新時代を切り拓いた革命児
解説
革命児の登場
天文三年(一五三四年)、尾張国那古野城に生まれた織田信長は、「天下布武」の大志を掲げ、日本の中世から近世への転換を一身に体現した革命的武将である。信長は既存の権威や慣習をことごとく打破し、楽市楽座の経済政策、鉄砲の大量運用、安土城の築城など、あらゆる分野で時代を先取りする革新を成し遂げた。その苛烈な性格から「第六天魔王」と自ら称したとされるが、この異名は仏敵にして最強の魔王たる第六天に自らを擬するという、信長ならではの傲岸不遜な自己認識の表れであった。
革新的な政策
信長と刀剣の関係は、単なる蒐集家のそれを超え、刀を政治的権力の道具として最も巧みに活用した人物として特筆される。名刀の下賜は信長にとって家臣統制の最重要手段のひとつであり、功績ある家臣には惜しみなく天下の名刀を与え、不興を買った者からは容赦なく取り上げた。このような刀剣の政治的運用は、後の豊臣秀吉や徳川家康にも継承されることとなる。
刀剣蒐集への情熱
「へし切長谷部」は信長の刀剣にまつわる逸話の中でも最も有名なものである。信長が寵愛していた茶坊主が何らかの不手際を犯した際、茶坊主は膳棚の下に逃げ込んで隠れた。信長は激怒し、この刀で棚ごと茶坊主を押し切って殺害したと伝わる。「へし切」の号はこの「圧し切り」に由来する。長谷部国重の作であるこの太刀は、相州伝の力強い皆焼(ひたつら)刃が特徴で、信長の苛烈な気性をそのまま映したかのような凄絶な美を持つ。この刀は後に黒田官兵衛に下賜され、黒田家の至宝として伝来し、現在は国宝に指定されている。
愛刀と逸話
「宗三左文字」は、永禄三年(一五六〇年)の桶狭間の戦いで今川義元から奪った戦利品である。義元がこの刀を佩いていたことから「義元左文字」とも呼ばれる。左文字は筑前国の刀工で、南北朝時代に相州伝の技法を取り入れて独自の作風を確立した名工である。信長はこの刀を生涯手元に置いて愛蔵し、桶狭間の勝利と天下取りへの第一歩を象徴する刀として特別視した。信長の没後、この刀は秀吉、家康へと渡り、天下人の証として三人の覇者に所持された稀有な名刀となった。
鉄砲と火縄銃
「不動行光」は藤四郎吉光の作で、信長が殊に愛した短刀である。信長は酒宴の席でこの刀を手に舞い、「不動行光、九十九髪」と唄ったと伝えられる。行光の作刀は緻密な沸と精美な地鉄が特徴で、短刀ながら凝縮された美が際立つ。「薬研藤四郎」もまた粟田口吉光の作で、主人を刺そうとした際に鎧を通さなかったが、薬研(薬を磨り潰す道具)は容易に貫いたことから号が付いた。信長はこれらの名刀を安土城に収蔵し、壮大な刀剣コレクションを築き上げた。
天下布武への道
天正十年(一五八二年)六月二日、本能寺の変。明智光秀の謀反により信長は炎の中に果てた。この時、安土城と本能寺に収蔵されていた数々の天下の名刀が灰燼に帰したことは、日本刀剣史における最大級の損失と言わざるを得ない。薬研藤四郎をはじめ、二度と戻らぬ名刀の数々が信長とともに歴史の闇に消えた。信長の生涯は四十九年の短さであったが、刀剣文化に与えた影響は計り知れず、「名刀を以て天下を制する」という信長の刀剣観は、日本の武家社会における刀の位置づけを決定的なものとした。
所持した刀剣
- へし切長谷部(長谷部国重作・国宝。相州伝の皆焼刃が凄絶な美を放つ。棚ごと茶坊主を圧し切った逸話で知られる)
- 宗三左文字(義元左文字。桶狭間の戦利品として信長が生涯愛蔵。筑前左文字の傑作)
- 不動行光(藤四郎吉光作。信長が酒宴で手に舞った愛刀。緻密な沸と精美な地鉄の短刀)
- 薬研藤四郎(粟田口吉光作。鎧は通さず薬研を貫いた逸話を持つ名短刀。本能寺の変で焼失)