前田利家
Maeda Toshiie
槍の又左——赤母衣衆から加賀百万石の太守へ、天下五剣「大典太光世」を伝えた豪傑
解説
槍の又左の誕生
天文八年(一五三九年)、尾張国荒子城に生まれた前田利家は、「槍の又左」の異名で戦国の世に武名を馳せ、後に加賀百万石の礎を築いた猛将にして文化人である。織田信長の赤母衣衆(精鋭親衛隊)のひとりとして若き日から数々の合戦で武功を重ね、特に槍術においては天下無双と称された。
信長の赤母衣衆
利家の武勇は早熟であった。十四歳で信長に仕え始め、初陣から槍を振るって敵将を討ち取る活躍を見せた。信長の赤母衣衆は、戦場で目立つ赤い母衣を背負い、最前線で戦うことを誇りとする精鋭部隊であり、利家はその筆頭として数多くの合戦で先陣を切った。桶狭間の戦い、稲葉山城の戦い、姉川の合戦など、信長の主要な合戦にはほぼすべて参戦し、槍を振るって武功を挙げた。
秀吉時代への転換
利家の槍術は天下に轟いたが、刀剣への造詣も深かった。前田家に伝来した刀剣の中で最も名高いのは「大典太光世」(おおでんたみつよ)である。天下五剣のひとつに数えられるこの太刀は、筑後国三池の刀工・典太光世の作で、三池典太の代表作として日本刀剣史上最高峰の名刀である。大典太光世は、幅広で重厚な姿と、板目肌に大模様の乱れ刃が特徴的で、平安時代末期の大らかな作風を今に伝えている。前田家の家宝として代々大切に伝えられ、国宝に指定されている。
加賀百万石への歩み
この大典太光世がいかにして前田家に伝わったかについては諸説あるが、豊臣秀吉から利家に下賜されたとする説が有力である。利家は信長・秀吉のもとで武功を重ねるたびに名刀を下賜されることが多く、信長からは合戦の褒賞として数々の名刀を受け取った。これらの名刀は前田家の格式を示す至宝として蒐集され、加賀藩の刀剣コレクションの核を形成した。
刀剣蒐集の眼力
利家は豊臣政権において五大老のひとりとなり、秀吉の死後は豊臣家の後見役として幼い秀頼を支えた。利家の存在は徳川家康の権勢拡大に対する最大の牽制であり、利家が健在である限り家康は豊臣家に手を出せなかったとされる。しかし慶長四年(一五九九年)、秀吉の死からわずか一年で利家もまた没した。利家の死は豊臣政権の崩壊を早め、翌年の関ヶ原の戦いへとつながっていく。
文化人としての側面
加賀藩は江戸時代を通じて百万石の大藩として繁栄し、日本有数の刀剣コレクションを誇った。前田家の刀剣は天下五剣の大典太光世を筆頭に、質の高さで知られている。加賀藩は文化事業にも熱心であり、刀剣の保存・鑑賞の文化が藩を挙げて推進された。利家が築いた武と文化の伝統は、加賀百万石の栄華とともに後世に伝えられている。
加賀の礎
利家にとって槍は戦場での最大の武器であったが、刀剣は武門の棟梁としての格式と文化的教養を示す象徴であった。槍で敵を倒し、刀で己の品格を表す——その姿は、武勇と教養を兼ね備えた戦国武将の理想像そのものであった。
所持した刀剣
- 大典太光世(天下五剣のひとつ・国宝。筑後国三池の刀工・典太光世の作。幅広で重厚な姿、板目肌に大模様の乱れ刃が特徴。平安末期の大らかな作風を今に伝える至宝)
- 前田家伝来の刀剣群(信長・秀吉から下賜された名刀を核とするコレクション。加賀百万石の格式を示す質の高い名品が多い)
- 赤母衣衆時代の実戦刀(信長の精鋭親衛隊として最前線で振るった刀。利家の若き日の武勇を物語る)