福島正則
Fukushima Masanori
賤ヶ岳七本槍の筆頭——豪勇無双の槍働きで名を馳せ、数多の名刀を所蔵した戦国武将
解説
賤ヶ岳の英雄
永禄四年(一五六一年)、尾張国海東郡に生まれた福島正則は、豊臣秀吉の従兄弟にして養子という縁故から若くして秀吉に仕え、その豪勇によって戦国最強クラスの武将として名を馳せた。天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いで正則は柴田勝家配下の猛将・拝郷家嘉を単騎で討ち取るという壮絶な槍働きを見せ、加藤清正・脇坂安治らとともに「賤ヶ岳七本槍」の筆頭に数えられた。この時、正則は一番槍の功を立てたとして秀吉から大いに称えられ、以後「槍の福島」の異名とともに豊臣家の武闘派筆頭として知られるようになった。
豪勇の逸話
正則の豪勇は数々の逸話に彩られている。特に有名なのは「日本号」にまつわる飲み比べの話である。秀吉から下賜された天下三名槍のひとつ「日本号」を、正則が酒を飲めない家臣・母里太兵衛友信に「三杯飲んだら何でも与えよう」と持ちかけた。太兵衛は主君の命に逆らえず大盃三杯を飲み干し、その場で日本号の返還を要求した。正則は約束通りこの天下の名槍を太兵衛に与えたという豪快な逸話で、「黒田の家来が酒を飲んで日本号を取った」と福岡の民謡にまで謡われた。この逸話は正則の豪快な気性と、武士の約束を必ず守る義侠の精神を同時に示している。
名刀の蒐集
正則は槍の使い手として名高いが、刀剣の審美眼も確かであり、生涯を通じて多くの名刀を蒐集した。秀吉の一族という立場から各地の名工の作品に接する機会に恵まれ、相州伝・備前伝を問わず優れた刀剣を集めた。関ヶ原の戦いでは、当初石田三成との個人的な確執から東軍(徳川方)に与したが、その際も最高水準の刀装で参陣したと伝えられる。戦後、広島藩五十万石の大大名に取り立てられた正則は、大名として相応しい刀剣コレクションをさらに充実させた。豪放磊落な性格の正則が愛した刀剣は、精緻な作より豪壮で迫力ある一振りを好んだとされ、志津三郎兼氏や相州正宗の流れを汲む豪壮な作風の刀を特に珍重した。
関ヶ原と豊臣家への義
関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に与した正則であったが、その後も豊臣家への義理を捨てなかった。大坂の陣が近づくと、秀頼に味方したい気持ちを抑えつつ、徳川家への臣従を強いられた。江戸時代に入っても正則の武名と人望は衰えず、その存在は徳川幕府にとって潜在的な脅威であった。元和五年(一六一九年)、幕府は城の無断修築を口実として正則の改易を断行し、広島五十万石を没収して信濃川中島四万五千石に転封した。天下の大大名から小大名への転落は正則に大きな打撃を与え、寛永元年(一六二四年)に失意のうちに没した。
武将としての評価
正則は「武断派」の武将として文治派の石田三成と激しく対立したことで知られるが、その治世は必ずしも武力一辺倒ではなかった。広島在任中は河川改修などの土木事業を推進し、領国の経済発展にも尽力した。武骨ながら義理堅く、豪放にして情に厚い性格は多くの家臣と民から慕われ、改易後も正則を惜しむ声は各地から上がった。「賤ヶ岳七本槍の筆頭」という称号とともに、名刀を愛した豪傑として後世に語り継がれている。
DATEKATANAとの関わり
正則が秀吉から下賜されたとされる刀剣の中には、備前長船や相州伝の名作も含まれていた。DATEKATANAでは、正則が生きた安土桃山から江戸初期にかけての傑作刀剣を多数取り扱っており、豪傑が帯びたにふさわしい力強い一振りをご覧いただくことができます。
所持した刀剣
- 志津兼氏作の太刀(南北朝期の豪壮な作。相州伝の激しい沸と大乱れの刃文が正則の剛毅な気性に相応しい)
- 秀吉下賜の備前長船派作刀(主君・秀吉から賜った備前の名刀。丁子乱れの華やかな刃文が戦国大名の格式を示す)
- 日本号(槍・天下三名槍のひとつ。秀吉から下賜されたが飲み比べ勝負で母里太兵衛に取られた豪快な逸話で名高い)
- 相州伝の大太刀(五十万石の大大名として保有した格式ある名刀。豪壮な体配と迫力ある刃文が特徴)