森長可
Mori Nagayoshi
鬼武蔵——戦場を疾走した最凶の猛将、蘭丸の兄にして戦国最後の狂騎士
解説
鬼武蔵の誕生
永禄元年(一五五八年)、美濃国の豪将・森可成の嫡男として生まれた森長可は、その生涯を通じて「鬼武蔵」の異名の通りに生き、戦国時代最後の純粋な武人として歴史に名を刻んだ人物である。父・可成は織田信長の有力武将として活躍したが、元亀元年(一五七〇年)に宇佐山城の戦いで戦死した。その後、長可は幼いながらも家督を継いで信長に仕え、まだ十代のうちから凄まじい武勇を発揮し始めた。弟の蘭丸が知性と美貌で信長の寵愛を受けた側近小姓であったのに対し、長可は剣術と槍術において当代随一の実力を持つ猛将として、まったく異なる形で信長に貢献した。
鬼武蔵の武名
長可の武名が天下に轟いたのは、天正十年(一五八二年)の甲州征伐においてである。信長の命を受けた長可は、信濃国の上野(こうずけ)へと向かう途上、川中島を経由する際に自軍の進路にある村々を片端から焼き払い、抵抗する者は悉く斬り捨てていった。この行軍の凄まじさは「鬼武蔵が通ったところには草も生えない」と恐れられるほどであったと伝わる。長可はこのような苛烈な行動を当然のこととして行い、それに対して何ら後ろめたさを感じる様子がなかった。これが「鬼武蔵」の名の由来である。
武器と剣術
長可が愛用した武器の中でも最も有名なのは、「人間無骨」という名の大身槍である。「人間無骨」とは「人間は骨まで斬れる」という意味を持つとされ、その号が示す通り、長可はこの槍を以て多くの武将を討ち取った。槍の穂先の長さは通常より大きく、その全長は相当なものであったとされる。この槍は現在も尾張徳川家に伝わり、国の重要文化財に指定されている。また長可は剣術においても卓越した実力を持ち、新当流を修めて当代の剣客たちと互角以上に渡り合ったとされる。「刀は飾りではない、実際に人を斬る道具だ」という信念のもと、長可は常に実戦を想定した鍛錬を積んだ。
信長死後の苦境と小牧長久手
天正十年(一五八二年)六月の本能寺の変で主君・信長が討たれ、弟・蘭丸も同じ炎の中で散った。長可はこの時、信濃国の所領を守るために奔走したが、上杉氏・北条氏・徳川氏の圧力によって苦境に立たされた。本能寺の変の後、秀吉が明智光秀を討って実権を握ると、長可は秀吉に従った。しかし信長の子・織田信雄が徳川家康と同盟を結んで秀吉に対抗したため、天正十二年(一五八四年)に小牧・長久手の戦いが勃発した。
最期——長久手の戦場
天正十二年(一五八四年)四月九日、長久手の戦いにおいて長可は壮絶な最期を遂げた。長可は秀吉方の先鋒として三河国に攻め込んだが、徳川方の待ち伏せにより側面から猛攻撃を受けた。長可は敵中突破を試みて駆け回ったが、銃弾を頭部に受けて即死した。享年二十六。「鬼武蔵」の異名を持つ最強の猛将の、これ以上ない最期であった。「鬼武蔵は生き延びてはならぬ人間だ、あれは死ぬことで完成する」とは後の世の評価であるが、長可自身もまた自らの死に様を意識していたかのように、この最期はあまりに鮮烈であった。
刀剣と武の哲学
長可の刀剣観は極めて明快なものであった。刀は美術品である前に武器であり、その評価基準は切れ味と堅牢さでなければならない——長可はそのような武人としての純粋な価値観の持ち主であった。長可が愛用した刀剣については、実戦本位の三河・尾張系の刀工による作品が中心であったとされる。尾張の刀工は地場産業として発達した独自の作風を持ち、実用性を最優先とする武士の需要に応える頑丈な造りで知られていた。長可にとって刀は命を守り敵を斬るための道具であり、それ以上でも以下でもなかった。しかしその純粋さこそが、逆説的に刀剣の本質——「武器としての完璧な機能美」——を最も純粋に体現する存在であった。
鬼武蔵の遺産
森長可という人物は、戦国時代の武人の一つの極限型を示している。知略も政治力も必要とせず、ただ剛勇と突進力だけで戦場を支配した長可は、戦国時代という「力が支配する時代」にのみ存在しえた純粋な武人であった。弟・蘭丸が美と武の融合を体現したとすれば、長可は武の純粋な暴力性と凄まじさを体現した存在であった。この兄弟がともに若くして散ったことは、戦国という時代そのものの、美しく残酷な姿を象徴している。
所持した刀剣
- 人間無骨(大身槍・尾張徳川家伝来・重要文化財)——「骨まで斬れる」の意を持つ長可の代名詞。穂先が通常より大きく、戦場で多くの武将を討ち取った天下の名槍。現在も尾張徳川家に伝わる
- 長可の実戦刀——新当流を修めた長可が戦場で佩用した刀。美術的価値よりも切れ味と堅牢さを最優先とした三河・尾張系刀工の作品。純粋な武器としての刀の完成形