蜻蛉切
Tonbokiri
別名: 蜻蛉切・天下三名槍・戦国最強の武将の愛槍・触れるだけで蜻蛉を両断した槍
解説
刀の概要
天下三名槍の一つに数えられ、戦国時代最強の武将と名高い本多忠勝の愛槍として知られる伝説的な大笹穂槍。穂の長さは約43.8cm(現在は磨り上げられて短くなっているとされ、元は約一尺四寸・約42.4cmとも)、笹の葉を思わせる優美な曲線を描きつつも幅広く肉厚な穂先は、突くだけでなく斬る・薙ぐにも優れた実戦的な造りである。穂には三鈷剣と梵字の精緻な彫刻が施されており、武器としての機能美と宗教的な荘厳さを兼ね備えている。
作刀の工匠
作者の藤原正真は三河国(現在の愛知県東部)の刀工で、伊勢国桑名の名工・千子村正の弟子であったとする伝承がある。村正譲りの実戦本位の鋭い切れ味を受け継ぎつつ、独自の力強い作風を確立した刀工とされる。
製法と特徴
蜻蛉切の地鉄は板目肌がよく練れて地沸が厚くつき、刃文は湾れに互の目を交えた躍動感のある出来映えである。「蜻蛉切」の名は、穂先に蜻蛉(トンボ)が止まった途端にその身体が真っ二つに切れたという逸話に由来する。触れただけで生き物を両断するという凄まじい切れ味の伝説は、この槍の威力を端的に物語っている。本多忠勝(1548年〜1610年)は徳川家康に仕えた戦国武将で、「徳川四天王」「徳川十六神将」の筆頭格として知られる。生涯五十七度の合戦に出陣しながら一度もかすり傷すら負わなかったという驚異的な記録を持ち、その武勇は敵味方を問わず畏敬された。豊臣秀吉は忠勝を「日本の張飛」(中国三国志の猛将・張飛に比して)と称え、織田信長は「花も実も兼ね備えた武将」と評したとされる。蜻蛉切はその忠勝と常にあり、忠勝の武名を天下に轟かせる象徴であった。現在は静岡市美術館に個人蔵として寄託されており、定期的に公開されている。なお、DATEKATANAでは蜻蛉切の作者・藤原正真の真作を取り扱っております。天下三名槍の鍛冶の技をお手に取ってご体感いただける、またとない機会でございます。
逸話・伝説
## 伝説と逸話 蜻蛉切にまつわる伝説は、本多忠勝という武将の超人的な武勇と不可分に結びついている。忠勝が初陣を飾ったのは永禄三年(1560年)、わずか十三歳の時の大高城兵糧入れの戦いであった。以来、姉川の戦い(1570年)、三方ヶ原の戦い(1573年)、長篠の戦い(1575年)、小牧・長久手の戦い(1584年)、関ヶ原の戦い(1600年)と、戦国の主要な合戦のほぼすべてに参戦し、その数は五十七度に及んだ。驚くべきは、これらすべての戦いにおいて一度もかすり傷すら負わなかったという事実である。蜻蛉切はその全合戦を通じて忠勝の手にあり、幾多の敵兵を葬ったとされる。穂先に蜻蛉が止まった途端に真っ二つに切れたという名前の由来となった逸話について、具体的な時期や場所は伝わっていないが、忠勝が戦場で槍を手入れしていた際の出来事であるとする説がある。蜻蛉は古来「勝ち虫」と呼ばれ武士に愛された吉祥の虫であるが、その勝ち虫すら断ち切るほどの鋭さを持つ槍という含意は、蜻蛉切の名に一層の凄みを加えている。忠勝の武勇を象徴する逸話として、小牧・長久手の戦いにおけるものが特に名高い。豊臣秀吉率いる大軍の前に、忠勝はわずかな手勢で殿を務め、秀吉の大軍を前にしてひるむことなく立ちふさがった。この時の忠勝の姿に感嘆した秀吉は「あれが噂に聞く本多忠勝か。日本の張飛よ」と称えたとされる。関ヶ原の戦い(1600年)の頃、忠勝は五十三歳の老境に差しかかっていた。体力の衰えを自覚した忠勝は、蜻蛉切の穂先を短く磨り上げて軽くしたと伝えられるが、その威光は些かも衰えなかった。関ヶ原の本戦においても忠勝は獅子奮迅の働きを見せ、蜻蛉切を振るって戦場を駆け巡ったという。慶長十五年(1610年)、忠勝は桑名藩にて六十三歳で世を去った。死の直前、忠勝は小刀で自らを彫り物をしようとして手を切り、「戦場で一度も傷つかなかったこの身体が、刃物で傷つくとは。これが寿命というものか」と述懐したという逸話が残る。忠勝亡き後、蜻蛉切は本多家の家宝として代々伝えられ、後に個人蔵を経て現在に至っている。戦国最強の武将とその愛槍——蜻蛉切は、本多忠勝という不敗の伝説そのものを具現化した存在である。