和泉守兼定
Izuminokami Kanesada
別名: 之定(二代兼定)/ 十一代兼定・土方歳三の愛刀・鬼の副長とともに戊辰を駆けた刀
解説
刀の概要
美濃国関(現在の岐阜県関市)の名工・兼定の代々にわたる刀工銘であり、室町時代から幕末に至るまで約四百年にわたって名刀を鍛え続けた日本刀史上屈指の名門刀工家系である。特に二代目兼定は「之定(のさだ)」の通称で知られ、銘に「定」の字を独特の崩し字(「之」の字のように見える)で切ることからこの呼び名がある。之定は「関の孫六」兼元と並ぶ美濃鍛冶の双璧として名高く、美濃伝を代表する名工の一人である。
製法と特徴
之定の作風は地鉄が板目肌に柾が交じり、刃文は尖り互の目を基調とする美濃伝特有の華やかな出来映えで、切れ味と美しさを高い次元で両立させている。幕末には十一代目の和泉守兼定が、新選組副長・土方歳三の愛刀として知られることとなり、兼定の名を近代にまで轟かせた。土方歳三の和泉守兼定は、幕末の会津藩お抱え刀工であった十一代兼定の作とされ、刃長二尺三寸一分(約70.0cm)の打刀である。地鉄は板目肌に小杢目が交じり、刃文は互の目乱れに尖り刃を交えた美濃伝らしい華やかな作風を示す。土方歳三(1835年〜1869年)は武蔵国多摩の農家出身ながら天然理心流を学び、新選組の副長として京都の治安維持に尽力した幕末の剣客である。「鬼の副長」と恐れられた土方は、池田屋事件をはじめとする数々の戦いを潜り抜け、戊辰戦争では官軍に追われながらも北へ北へと転戦し続けた。最終的に蝦夷地(北海道)の箱館五稜郭に至り、1869年五月十一日、箱館戦争の最中に銃弾に倒れた。享年三十五。和泉守兼定は土方の最期まで傍らにあったとされ、現在は東京都日野市の土方歳三資料館に所蔵されている。
逸話・伝説
## 伝説と逸話 和泉守兼定と土方歳三の物語は、幕末から明治維新にかけての激動の時代を刀とともに駆け抜けた一人の武士の生涯そのものである。文久三年(1863年)、土方は近藤勇らとともに将軍上洛の警護のために京都に上り、壬生浪士組(後の新選組)を結成した。副長として厳格な規律を敷いた土方は「鬼の副長」と呼ばれ、隊内に絶対的な統制をもたらした。元治元年(1864年)の池田屋事件は新選組の名を天下に轟かせた一戦であり、土方もこの事件に参加して尊王攘夷派の志士たちと刃を交えた。慶応四年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、新選組は瓦解の道を歩み始める。近藤勇は下総の流山で新政府軍に投降し、板橋で斬首された。しかし土方は降伏を良しとせず、旧幕府軍とともに北へ向かった。宇都宮、会津若松、仙台、そして蝦夷地へと、土方は新政府軍に抗い続けながら転戦を重ねた。この長い戦いの中で、和泉守兼定は常に土方の腰にあった。蝦夷地に渡った土方は箱館五稜郭を拠点とする蝦夷共和国の陸軍奉行並に就任したが、明治二年(1869年)五月、新政府軍の総攻撃が始まった。五月十一日、土方は馬上で指揮を執っていたが、一発の銃弾が腹部を貫き、三十五歳の生涯を閉じた。「最後の武士」と称される土方歳三の生き様は、武士道が終焉を迎えた時代にあってなお刀を佩いて戦い続けた男の矜持を象徴している。土方の死後、和泉守兼定は遺品として故郷の日野に届けられ、土方家で大切に保管された。現在は東京都日野市の土方歳三資料館で一般公開されており、毎年命日の前後には特別公開が行われている。ゲーム『刀剣乱舞』における和泉守兼定は、土方歳三への強い忠誠心と「最後まで戦い抜く」精神を体現するキャラクターとして絶大な人気を誇り、日野市を訪れるファンが急増するなど地域活性化にも貢献している。