山名宗全
Yamana Sozen
赤入道——六分の一殿と呼ばれた大大名、応仁の乱の西軍総帥として老骨に鞭打ち京都を炎に包んだ
解説
六分の一殿の登場
山名宗全(本名・持豊)は応永十一年(1404年)、山名時煕の子として生まれた。山名氏は全国六十六国のうち十一ヶ国を支配する時期があり、「六分の一殿」(日本の六分の一を支配する殿様)と呼ばれた大大名の家系である。その後幕府との対立(明徳の乱・1391年)により勢力を大きく削られたが、宗全の時代には丹波・但馬・因幡・伯耆・石見など山陰・山陽の多くの国を支配する依然として強大な一族であった。宗全は晩年に出家して「宗全」と号した。赤みがかった肌の色から「赤入道」の通称でも知られた。
幕政への介入と細川勝元との対立
山名宗全は室町幕府の有力守護大名として、幕府政治に大きな影響力を持った。特に細川勝元との対立は、単なる個人的な確執を超えた政治的・軍事的対立の構造を持っていた。斯波氏・畠山氏の家督争いに双方が介入したことで対立は激化し、足利義政の後継者問題とも絡み合って解決不能な状況となった。宗全が義政の弟・足利義視を擁し、勝元が義政の子・義尚を支持するという対立図式は、応仁の乱の核心となった。
応仁の乱と西軍総帥
応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱において、宗全は西軍の総帥として細川勝元率いる東軍と対峙した。六十三歳の老将が指揮を執る西軍は、丹波・山陰の精兵を中心に二十万とも称される大軍であった。宗全は西陣(現在の京都市上京区西陣)に本拠を構え、以後十一年にわたる持久戦を展開した。西陣の地名は現在も京都の地名として残り、西軍が陣を張ったことに由来する。戦いは京都市街を戦場とした泥沼の消耗戦となり、双方ともに決定的な勝利を得られないまま、京都の文化的財産が次々と灰燼に帰した。
刀剣と武将の矜持
山名宗全は武将としての矜持を最後まで失わなかった。老齢にもかかわらず自ら陣頭に立ち、西軍の士気を支えた宗全の姿は、当時の人々に深い印象を与えた。大大名として多くの刀剣を所持した宗全は、特に山陰・山陽の在地刀工による太刀を愛用したとされる。伯耆国の刀工(後の安綱流)の太刀は山名氏の本拠地に近い場所で製作されており、宗全が地元の刀工に優れた刀剣の製作を命じたことは十分に考えられる。また幕府の有力守護として上洛するたびに京都の名刀を入手し、山名家の宝庫を充実させた。
宿敵・細川勝元との奇妙な共鳴
歴史の逸話として伝わるのは、宿敵である細川勝元と宗全が互いに敬意を持っていたという記録である。同じ室町文化の担い手として禅・茶・歌に通じた教養人であった二人は、政治的立場を超えた次元での精神的交流があったとも言われる。晩年の宗全が勝元との和解を望んでいたという記録もあり、応仁の乱がもはや誰の利益にもならない消耗戦であることを、当事者たちも十分に認識していたことが分かる。文明五年(1473年)、宗全は勝元より数ヶ月早く陣中で病没した。享年七十歳。
応仁の乱の遺産と刀剣文化
山名宗全の死は応仁の乱の事実上の終結への道を開いた。しかし十一年の戦乱が日本の刀剣文化に与えた影響は計り知れない。多くの名刀が戦火で失われ、刀工が各地に散らばることで鍛冶技術が全国に伝播した。宗全が支配した山陰地方の刀工たちもまた、この動乱の中で活動の場を変え、あるいは廃業し、あるいは新天地で技術を継承した。「赤入道」の名で知られる老将が引き起こした(あるいは巻き込まれた)応仁の乱は、日本刀の歴史においても一つの重要な転換点として記憶されるべき出来事である。
所持した刀剣
- 伯耆伝太刀(山名氏の本拠地・山陰地方の伯耆国に伝わる古来の刀工による太刀。安綱の系譜を引く伯耆鍛冶の作品を宗全が所持したと伝えられ、山陰の地と刀剣の深い縁を示す)
- 西軍総帥の陣太刀(応仁の乱において宗全が西陣の本拠で帯したとされる大太刀。六十代の老将が最後まで武将の矜持を示した戦場での証)