毛利輝元
Mori Terumoto
中国地方の太守——元就の遺業を継ぎ、西軍の総大将として関ヶ原に臨んだ毛利の嫡孫
解説
元就の遺産を継ぐ
天文二十二年(一五五三年)、安芸国に生まれた毛利輝元は、「三矢の訓え」で名高い智将・毛利元就の嫡孫として毛利家第二代当主の座を継いだ人物である。祖父・元就は百戦錬磨の智略で中国地方十カ国に覇を唱えたが、輝元が当主となった時(元就の死後)、その広大な遺産をいかに維持・発展させるかという重責が輝元の双肩にのしかかった。輝元は祖父のような卓越した智略こそ持たなかったが、祖父が遺した毛利両川体制(吉川・小早川の二家による補佐体制)を基礎に、毛利家の勢力を維持することに一定の成功を収めた。
豊臣政権下での地位
豊臣秀吉の天下統一過程において、毛利家は織田・豊臣の軍門に下ることを余儀なくされたが、それでも西国の大大名としての地位を保ち続けた。輝元は五大老のひとりとして豊臣政権の中枢に参加し、朝鮮出兵においても重要な役割を担った。秀吉から深く信任された輝元は、後の関ヶ原の戦いを前後する時期においても西国随一の石高を誇る大大名であり、その政治的影響力は計り知れないものであった。五大老制度の中で輝元は武断派と文治派の両方に気脈を通じており、秀吉存命中は巧みにその立場を維持した。
関ヶ原の西軍総大将
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いにおいて、輝元は石田三成・大谷吉継らの要請を受けて西軍の総大将に就任した。しかし輝元自身は関ヶ原の本戦場に赴くことなく、大坂城に留まった。この決断(あるいは優柔不断)が後に大きな批判を浴びることになる。西軍が敗北すると、輝元は速やかに東軍への降伏を申し入れ、毛利家の存続を図った。家康はこの申し入れを受け入れ、輝元の所領は大幅に削減されたが(百二十万石から約三十万石へ)、毛利家は長州藩として存続することを許された。
長州藩の成立と刀剣文化
輝元が実質的に創立した長州藩(萩藩)は、江戸時代を通じて反徳川の潜在的拠点として機能し、ついには幕末の長州藩として倒幕運動の中心的役割を担うことになる。この意味で輝元の政治的選択は、二百七十年後の明治維新という日本史上最大の変革への遠い伏線となった。長州の刀剣文化は、中国地方の豊かな鉄資源を背景に発展した。輝元は備前・山城の名刀を蒐集するとともに、毛利家の御用刀工として長船・長尾・備前の刀工を庇護した。中国地方の刀工は備前伝を中心に発展しており、輝元の時代には毛利家の財力を背景に優れた作刀が数多く生み出された。
毛利家伝来の名刀
毛利家には祖父・元就以来、代々の合戦と外交を通じて蒐集された優れた刀剣が伝わっていた。輝元はこれらの家宝を大切に管理し、一部は豊臣政権への贈り物や外交的な配布に使用した。毛利家伝来の刀の中には備前長船の名工による太刀・刀が複数含まれており、中国地方の有力大名としての毛利家の格式を体現する品々であった。関ヶ原後の所領削減によって毛利家の財力は大きく損なわれたが、それでも輝元は余生において刀剣文化への関心を失わず、長州藩における刀工の育成に尽力した。
晩年と遺産
元和元年(一六一五年)の大坂夏の陣の後、輝元は一切の政治活動から退いた。寛永二年(一六二五年)、輝元は七十三歳で没した。輝元の評価は毀誉褒貶があり、祖父・元就の偉業の陰に隠れがちな人物ではあるが、苛烈な戦国時代を生き延びて毛利家を存続させたその現実的な判断力は、一種の政治的才能として評価されるべきである。毛利家が幕末まで存続し、ついには明治維新の原動力となったことは、輝元の選択がなければ実現しなかった可能性もある。
所持した刀剣
- 毛利家伝来の備前長船名刀(元就以来代々に渡る毛利家の刀剣蒐集の中心的存在。備前長船の名工による格調高い太刀は中国地方の覇者・毛利家の権威を体現)
- 豊臣政権五大老の刀(五大老のひとりとして秀吉から拝領したとされる名刀。豊臣政権における毛利家の最高格式を示す一振り)