加藤嘉明
Katō Yoshiaki
賤ヶ岳七本槍の猛将——水軍を率いた海の武者、松山藩と会津藩の礎を築いた歴戦の将
解説
賤ヶ岳の七本槍
永禄六年(一五六三年)、三河国(現在の愛知県)に生まれた加藤嘉明は、豊臣秀吉の小姓として仕えたのち、天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いで目覚ましい武勲を立てて「賤ヶ岳七本槍」のひとりに数えられた武将である。七本槍とは、この戦いで特に傑出した武功を挙げた七人の若武者を指し、加藤清正・福島正則・片桐且元・平野長泰・糟屋武則・脇坂安治と並ぶ嘉明は、豊臣政権における武功派武将の象徴的存在であった。
水軍の将としての活躍
嘉明の軍事的特質として特筆すべきは、水軍の指揮能力の高さである。天正十三年(一五八五年)の四国征伐、文禄・慶長の役(朝鮮出兵・一五九二〜九八年)において、嘉明は水軍を率いて数々の海戦を指揮した。特に慶長の役における水軍活動は高く評価され、李舜臣率いる朝鮮水軍との激戦においても奮戦した。海戦においては刀剣よりも弓矢・鉄砲・艦載砲が主要な武器となるが、嘉明の武将としての本質は陸上でも海上でも等しく発揮される剛勇にあった。
刀剣と武将の装い
賤ヶ岳の七本槍として名を馳せた嘉明は、武将としての格式にふさわしい名刀を所持した。豊臣政権下の有力武将として、秀吉から拝領した太刀や自ら入手した名品を佩用したことは疑いなく、その武名に恥じない最高級の刀剣を身に纏った。戦国期の武将にとって刀剣は単なる武器を超えた自己表現の道具であり、戦場での武勇を証明する記念品でもあった。嘉明が賤ヶ岳で奮戦した際の槍に加え、接近戦での太刀の使用も当然に想定されており、その剣技は七本槍の勇者にふさわしいものであったと伝わる。
関ヶ原の決断と松山藩の創設
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは、嘉明は東軍(家康方)に参加して活躍し、戦後に伊予松山二十万石に加増された。松山城の築城に着手した嘉明は、伊予国の経営に尽力したが、元和六年(一六二〇年)に会津四十万石へと転封され、松山から会津に移った。嘉明が礎を築いた松山城(現在の愛媛県松山市)は現在も現存十二天守のひとつとして知られ、嘉明の遺産を今に伝えている。
会津藩の礎と晩年
会津四十万石に転封された嘉明は、寛永八年(一六三一年)に没した。嘉明の死後、会津藩は加藤家の嗣子問題から幕府による改易(取り潰し)を受け、後に保科正之(徳川家光の異母弟)が入封して会津松平家の礎が築かれた。松山・会津という二つの地で大きな足跡を残した嘉明の生涯は、賤ヶ岳の若武者が天下の大名にまで成長した典型的な豊臣武功派の軌跡を示している。
七本槍の中の嘉明
賤ヶ岳七本槍の中でも、加藤清正・福島正則が特に有名であるが、嘉明は水軍指揮官としての特殊な能力を持つ点で独自の地位を占めている。七本槍それぞれが異なる個性と武勇を持ちながら、共通して豊臣政権の武力的基盤を担ったことは、豊臣政権の軍事力の多様性を示すものでもある。嘉明の場合、陸上戦と水上戦の双方に優れた汎用性の高さが他の七本槍と異なる特質であり、秀吉がそれを高く評価したことが多くの合戦での重用につながった。
所持した刀剣
- 秀吉拝領の太刀——賤ヶ岳七本槍の武功により豊臣秀吉から下賜された太刀。七本槍のひとりとして受けた最高の誉れを体現する一振り
- 水軍将軍の佩刀——朝鮮出兵において水軍を率いて李舜臣の艦隊と戦った嘉明が佩用した実戦刀。陸海双方の戦場で活躍した汎用の武将の魂を宿す刀