井伊直政
Ii Naomasa
赤鬼——徳川四天王最年少にして最強、赤備えの騎馬軍団を率いた猛将
解説
赤鬼の誕生
永禄四年(一五六一年)、遠江国井伊谷に生まれた井伊直政は、徳川四天王(本多忠勝・榊原康政・酒井忠次・井伊直政)の中で最年少でありながら、その武勇においては誰にも引けを取らない猛将として知られる。幼少期に父・直親を謀殺され、母と引き離されるという悲運な境遇に育った直政は、十五歳にして徳川家康に直訴し、その機転と度胸を見込まれて小姓に取り立てられた。容姿端麗にして知謀にも優れ、家康は直政を殊の外寵愛した。しかし直政はその寵愛に甘んじることなく、武の道に邁進し、徳川武将団の中でも群を抜く武勇を示すに至った。
赤備えの継承
直政の名を天下に轟かせたのは「赤備え」の継承である。赤備えとは、甲冑・馬具・旗印のすべてを朱赤で統一した軍装で、かつては武田信玄の精鋭騎馬軍団を率いた山縣昌景の部隊が用いていたものである。天正十年(一五八二年)の甲州征伐で武田家が滅亡した後、家康はその旧臣たちを多数召し抱えたが、直政はこれらの元武田武士を率いる将として任命され、山縣隊の赤備えを引き継ぐことを命じられた。敗者の軍装を勝者の将が受け継ぐというこの命令は、武田武士のプライドを傷つけるものでもあったが、直政はその人望と武勇によって旧武田武士たちの心を掌握し、「井伊の赤鬼」として天下に知られる最強の騎馬軍団を作り上げた。山縣昌景の赤備えを受け継いだ直政の軍は、武田の亡霊が乗り移ったかのように戦場を席巻し、敵軍に恐怖を与えた。
関ヶ原での武勇
天正十二年(一五八四年)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣方の猛将・堀秀政の軍勢と激突し、直政は自ら先頭に立って突撃を敢行した。その後も各地の合戦で武功を重ね、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では肥前名護屋に在陣し、武将としての存在感を示した。そして慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで直政の武勇は頂点に達した。徳川方の先鋒として赤備えの軍勢を率いた直政は、合戦開始を告げる発砲の「抜け駆け」——すなわち家康の命令を待たずして独断で最初の一撃を放つという大胆な行動に出た。これは軍法に反する行為であったが、直政の戦機を見る眼と武将としての矜持がそうさせたのである。この抜け駆けによって関ヶ原の戦いの火蓋が切られ、直政は戦いを有利な方向へ導くことに貢献した。合戦の最中、直政は島津軍の退却を追撃する際に銃弾を受けて重傷を負った。この傷が元で翌慶長七年(一六〇二年)に直政は没した。享年四十一。
刀剣への深い造詣
直政は武辺一辺倒の武将ではなく、刀剣に対して深い造詣を持つ文化人でもあった。井伊家に伝来する刀剣は、直政が生涯をかけて蒐集した名品が中心となっており、その鑑識眼の高さを示している。直政が特に愛したとされる「井伊の名刀」のひとつは、相州伝の傑作である。相州伝は岡崎正宗を頂点とする鎌倉後期から南北朝期の刀剣の流派で、激しく沸が立つ刃文と豪壮な地鉄が特徴であり、武勲を重ねた猛将の愛刀にふさわしい覇気を帯びている。また直政は、かつての武田武士たちが持ち込んだ信州・甲州系の刀剣にも親しんでおり、甲斐・信濃の刀工が鍛えた堅牢な実戦刀を高く評価した。
井伊家伝来の名刀
直政の死後も、井伊家は歴代にわたって優れた刀剣を収集・保存し、「井伊家の名宝」として後世に伝えた。直政が彦根藩の初代藩主として基礎を築いた彦根藩は、徳川将軍家の親藩として格式の高い大名家であり、その刀剣コレクションは質・量ともに他の大名家を凌駕するものであった。現在、彦根城博物館には直政をはじめとする歴代井伊家藩主ゆかりの甲冑・刀剣が多数収蔵されており、その朱赤に彩られた赤備えの甲冑とともに、名刀の数々が往時の輝きを今に伝えている。
赤鬼の遺産
直政の存在は、単なる武勇の人としてだけでなく、戦国から江戸への過渡期において徳川家の礎を築いた政治家としても高く評価される。関ヶ原の戦い後の論功行賞において直政は最大の評価を受け、近江国彦根に十八万石を与えられた。傷が癒えぬまま藩政の基盤を整えることに尽力した直政の功績は、今日の彦根市の繁栄の礎となっている。「井伊の赤鬼」——その異名は、炎のように激しく、血のように赤く、そして徳川の世を守護する鬼神のように勇猛であった直政の生涯を、後世に雄弁に語り伝えている。
所持した刀剣
- 井伊家伝来の相州伝太刀(直政が愛蔵した相州伝の名刀。激しい沸と豪壮な地鉄が特徴で、猛将の気概を体現する)
- 甲州・信州系の実戦刀(旧武田武士から得た実戦本位の堅牢な刀。直政が指揮した元武田武士たちの魂が宿る)
- 彦根城博物館所蔵の井伊家名刀(歴代井伊家が蒐集した名品群。直政の鑑識眼が選んだ精鋭の刀剣たち)