後藤又兵衛
Gotō Mototsugu
大坂七将星の筆頭——黒田家を去り大坂城に散った武断派最後の英雄
解説
黒田長政との確執
永禄三年(一五六〇年)、播磨国に生まれた後藤又兵衛(基次)は、黒田孝高(官兵衛)・長政父子に仕えた豪勇の武将として知られ、関ヶ原の戦いにおいても黒田軍の先鋒として活躍した。しかし関ヶ原後、主君・黒田長政との関係が悪化し、又兵衛は黒田家を去った。この「出奔」の理由については諸説あるが、又兵衛の武断的な気性と長政の文治的な傾向との対立が根本にあったとされる。長政が又兵衛の出奔を許さず追撃を命じたことは、この二人の間の深刻な確執を示している。
大坂七将星としての覚醒
黒田家を去った又兵衛は浪人として各地を転々とした後、大坂の陣(一六一四年・一六一五年)に際して豊臣方として入城した。大坂城に集まった浪人たちの中でも又兵衛は最も実戦経験豊富な猛将であり、真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・塙直之らとともに「大坂七将星」と称された。又兵衛は冬の陣・夏の陣を通じて各地で奮戦し、「後藤又兵衛ここにあり」という猛者ぶりを遺憾なく発揮した。
道明寺の戦いと最期
慶長二十年(一六一五年)五月六日の道明寺の戦いにおいて、又兵衛は兵力の劣勢にもかかわらず徳川軍に対して激しい抵抗を示した。水野勝成率いる徳川軍と激突した又兵衛は、敵中に深く切り込みながら銃弾を受けて討ち死にした。五十五歳での戦死であったが、その死に様は武士道の精髄を体現するものとして後世に称えられた。「大坂の役で最も輝いた武将は後藤又兵衛だった」と語る人々が多いほど、又兵衛の武勇は他の武将を圧倒するものがあった。
又兵衛の刀剣と武道哲学
又兵衛の刀剣観は徹底した実戦主義であった。黒田家に仕えた時代から、又兵衛は「綺麗な刀より切れる刀」を信条とし、実際に命を預けられる作刀を選び続けた。黒田官兵衛の下で朝鮮出兵を経験した又兵衛は、剣術と槍術の実践的な技量において群を抜いており、その武器選びにもこの実践的精神が色濃く反映されていた。播磨・備前の刀工の作品を愛用したとされる又兵衛の刀は、華美よりも性能を優先した武断派武将の美学を体現している。
浪人の刀——時代の敗者の武器
関ヶ原後の大量浪人問題は、又兵衛のような高禄の武将にとっても厳しい現実をもたらした。浪人となった又兵衛が大坂入城まで所持し続けた刀は、かつての栄光を失いながらも武士の誇りを手放さなかった男の矜持の象徴である。大坂城の豊臣方に集まった多くの浪人たちにとって、刀は「もう一度武士として戦う機会」の象徴であり、又兵衛はその精神の最も純粋な体現者であった。
所持した刀剣
- 黒田家武断の太刀——黒田官兵衛・長政父子に仕えた時代から又兵衛が愛用した実戦太刀。朝鮮出兵と関ヶ原の両方を経験した百戦練磨の武将が「命を預けた」刀であり、播磨・備前の実用美を体現する一振り
- 道明寺の突撃刀——最後の戦・道明寺において又兵衛が敵中に切り込んだ打刀。浪人として大坂城に入城し、武士として死ぬことを選んだ男の最後の一振り。豊臣への忠義と武士道の精華を刀身に宿す