水戸城
Mito Castle
概要
城について
水戸城は茨城県水戸市の那珂川と桜川に挟まれた丘陵台地に築かれた梯郭式平山城で、鎌倉時代初期に馬場氏が築いたと伝えられる。室町時代には江戸氏(水戸江戸氏)が城主となり、戦国時代を通じて常陸国の有力豪族として活躍した。慶長7年(1602年)に徳川家康の子・徳川頼宣が入城し、のちに徳川頼房(家康の十一男)が初代水戸藩主となった。以後、水戸藩は徳川御三家の一つとして260年の歴史を歩んだ。
水戸徳川家と水戸学
水戸藩は「大日本史」の編纂で知られる歴史研究の拠点であり、水戸学(みとがく)と呼ばれる尊皇攘夷思想の発信地として幕末の日本に計り知れない影響を与えた。二代藩主・徳川光圀(黄門様)は「大日本史」の編纂事業を開始し、全国の史料蒐集と歴史家の養成に尽力した。九代藩主・徳川斉昭(なりあき)は水戸学の集大成者として、尊皇攘夷・富国強兵を唱えて幕末の政治に大きな影響を与えた。斉昭の子が後の十五代将軍・徳川慶喜である。
偕楽園と水戸の文化
二代光圀が整備した偕楽園は、金沢・兼六園、岡山・後楽園とともに日本三名園の一つに数えられる。梅の名所として名高く、2月下旬〜3月の梅まつりの時期には100品種・3,000本の梅が咲き誇り、全国から多くの見物客が訪れる。水戸城は明治維新後に廃城となり、城跡には弘道館(水戸藩の藩校)と偕楽園が残るのみだが、近年本丸の角櫓・二の丸の大手門などが木造復元され、水戸城の往時の姿が蘇りつつある。
弘道館の精神
弘道館は天保12年(1841年)に徳川斉昭が設立した藩校であり、儒学・医学・天文学・武術を総合的に教授する日本最大規模の藩校の一つである。弘道館の精神「文武不岐(文と武は分かたれない)」は、刀を帯びた武士が同時に学問を磨く理想を体現しており、水戸の武士文化の根幹をなしている。
刀剣との関わり
水戸徳川家は刀剣史において最も重要な位置を占める大名家の一つである。その理由は複数あるが、最も特筆すべきは「燭台切光忠」という名刀の存在である。この刀は元々伊達政宗の愛刀であったが、後に徳川家へ移り、水戸徳川家が所蔵することとなった。長らく関東大震災で焼失したと考えられていたが、水戸徳川家の蔵から再発見され、名古屋の徳川美術館に収蔵された後、現在は福島県立博物館に修復貸出展示されている。燭台切光忠は鎌倉時代中期の備前長船光忠の傑作であり、その再発見は刀剣界に衝撃を与えた。水戸徳川家は歴代にわたって名刀蒐集に情熱を注ぎ、将軍家・尾張家・紀州家と並ぶ最高水準のコレクションを形成した。特に二代光圀は「大日本史」の史料蒐集と並行して名刀の調査も行い、全国の刀剣の銘・由来を記録した。九代斉昭は「武」を藩政の根本に据え、弘道館において剣術・槍術・砲術を実践的な武士教育の中核とした。斉昭自身も剣術の達人として知られ、弘道館道場で藩士と稽古に励んだとされる。幕末に水戸藩の志士たちが「尊皇攘夷」の旗のもとで行動した際、彼らが手にした刀は水戸学の精神を体現する象徴的な存在となった。桜田門外の変(1860年)では水戸脱藩浪士17名が大老・井伊直弼を暗殺したが、この事件で使われた刀は江戸末期の政治的激動における刀剣の役割を示す歴史的事件として永遠に記憶される。水戸徳川家が所蔵した刀剣の一部は現在、茨城県立歴史館・弘道館・徳川ミュージアムに収蔵されており、御三家の一つとして集めた最高水準の刀剣文化を今に伝えている。
見どころ
- 復元角櫓・大手門 — 近年木造復元された水戸城の遺構、往時の武家の威容が蘇る
- 弘道館(国の特別史跡・重要文化財) — 日本最大規模の藩校、文武不岐の精神の殿堂
- 偕楽園(日本三名園) — 徳川光圀・斉昭が整備した梅の名所、2月の梅まつりが有名
- 徳川ミュージアム — 水戸徳川家伝来の刀剣・甲冑・調度品を所蔵展示
- 茨城県立歴史館 — 水戸藩・燭台切光忠関連資料など茨城の歴史資料を充実展示
- 桜田門外の変ゆかりの地 — 水戸脱藩浪士が歴史を動かした幕末の事跡を辿る旅
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。