室町後期〜戦国(末古刀)
Late Muromachi-Sengoku (Sue-Kotō)
応仁の乱を発端に戦国乱世が始まり、足軽を主体とした大規模合戦の常態化により刀剣の大量生産が本格化。太刀に代わり打刀が主流となり、現代の「日本刀」の姿が確立された。「折れず曲がらずよく切れる」という日本刀の理想が追求された時代。
解説
応仁の乱と京都
応仁元年(1467年)、室町幕府の管領家である細川氏と山名氏の対立に端を発する応仁の乱が勃発し、京都は焦土と化した。この大乱を契機に室町幕府の権威は地に墜ち、全国各地で守護大名や国人領主が覇権を争う戦国時代が幕を開けた。下剋上の風潮が蔓延し、農民出身の足軽が戦闘の主力を担うようになると、それまでの武士個人の太刀から、大量の兵士に支給する実用的な刀剣への需要が爆発的に増大した。
大型刀の流行
この未曾有の需要に応えたのが、備前長船と美濃関の二大生産地である。備前長船では祐定(すけさだ)一族が最大の刀工集団として活躍し、「束刀」(たばがたな)と呼ばれる束にして売買される量産刀から、大名や有力武将の注文に応じた精緻な「注文打ち」まで幅広い品質の刀を鍛えた。祐定銘の刀工は同時代に数十人が活動していたとされ、その中でも与三左衛門尉祐定や彦兵衛尉祐定は注文打ちに優品を遺している。勝光(かつみつ)は祐定と並ぶ末備前の名工であり、宗光と連名で年紀を切った作品も知られる。永正年間(1504〜1521年)から天文年間(1532〜1555年)にかけてが末備前の最盛期であり、この時期の備前刀は質・量ともに圧倒的な存在感を示した。
刀工集団
しかし天正十八年(1590年)頃、吉井川の大洪水が長船一帯を襲い、多くの刀工の鍛冶場が壊滅的な被害を受けた。この天災により備前鍛冶は急速に衰退の道をたどり、日本最大の刀剣生産地としての地位を美濃関に譲ることとなった。備前長船の衰退は日本刀史における一大画期であり、古刀から新刀への転換を促す遠因の一つとなった。
地域の特色
美濃伝では関の鍛冶集団が戦国時代を通じて飛躍的な成長を遂げた。その頂点に立つのが「関の孫六」として名高い孫六兼元(まごろくかねもと)である。兼元は「三本杉」と呼ばれる三つの尖った焼刃が連続する独創的な互の目乱れの刃文を創始し、鋭利な切れ味で武将たちの信頼を勝ち得た。和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)は「之定」(のさだ)の通称で知られ、「定」の字の「ウ冠」を「之」の字形に切ることからこの名がある。之定の刀は地鉄の鍛え・刃文の冴え・姿の均整すべてにおいて高水準を示し、後世に新選組副長・土方歳三の愛刀として広く名を知られるようになった。
技術革新
この時代の最も重要な変化は、太刀から打刀への完全な移行である。太刀は刃を下にして腰から吊るすのに対し、打刀は刃を上にして帯に差す。この差し方の変化は、抜刀から斬撃までの動作を一挙動で行える利点があり、足軽を中心とした速戦速決の戦法に適していた。刃長は二尺二寸(約66センチメートル)前後の実用的な寸法が定着し、片手でも扱える軽量な設計が求められた。こうして戦国時代に確立された打刀の形式が、現代の我々が「日本刀」として認識する姿そのものである。
戦国時代への転換
戦国大名の需要に応じて各地の地方鍛冶も活発に活動した。薩摩では波平(なみのひら)一門が島津氏の御用刀を鍛え、肥後では同田貫(どうたぬき)正国が加藤清正の御用鍛冶として豪壮な実戦刀を量産した。駿河の島田義助、越前の千代鶴国安、日向の田中国広(後の堀川国広)など、各地で特色ある刀工が輩出されたことも末古刀期の重要な特徴である。
末古刀の刀は数打ち物から注文打ちまで品質の幅が極めて広い。数打ち物は銘が粗雑で造り込みも簡素だが、注文打ちの上作には古刀の伝統を踏まえた精緻な作品が多く、特に兼元・兼定・祐定の注文打ちはコレクターに根強い人気がある。戦国武将の逸話と結びついた刀も多く、歴史的ロマンと実用の美を兼ね備えた末古刀は、日本刀蒐集の醍醐味を味わえるジャンルである。
この時代の刀の特徴
- 太刀に代わり打刀が完全に主流となった画期的な時代。刃を上にして帯に差す打刀は抜刀即斬撃が可能で、足軽中心の速戦速決の戦法に最適化されていた
- 刃長二尺二寸(約66cm)前後の実用的な寸法が標準化。片手でも扱える軽量な設計が求められ、現代の我々が「日本刀」として認識する姿がこの時代に確立された
- 備前長船と美濃関の二大生産地を中心に大量生産(束刀=たばがたな)が行われた。一度の取引で数百本単位の刀が束にして売買される前代未聞の量産体制が整備された
- 「折れず曲がらずよく切れる」という日本刀の理想が実戦の中で追求された。切れ味に対する評価が極めて重視され、鋭利さと堅牢さの両立が刀工の腕の見せどころであった
- 束刀(数打ち物)と注文打ちの品質差は極めて大きい。数打ち物は短い茎に目釘穴一つの簡素な造りだが、注文打ちの上作には古刀の伝統を踏まえた精緻な名品が多い
- 天正十八年(1590年頃)の吉井川大洪水により備前長船の鍛冶場が壊滅。日本最大の刀剣生産地が一夜にして衰退し、美濃関が新たな生産の中心となった
- 戦国大名の需要に応じて薩摩・肥後・駿河・越前・日向など各地の地方鍛冶が活発に活動。各産地の風土と需要を反映した特色ある刀が鍛えられた
- 孫六兼元の「三本杉」に代表される美濃伝独自の刃文様式が確立。尖った互の目が連続する鋭利な刃文は実戦における切れ味の象徴として武将たちに愛された